…特別寄稿…

光圀とひたちなか

ふるさとに残された光圀の足跡

鴨志田篤二


徳川光圀陶像
人物叢書『徳川光圀』より
 

 歴代の水戸藩主のなかでも現在全国的に名が知られているのは第二代藩主徳川光圀(義公)であろう。

 初代藩主徳川頼房の三男として水戸で誕生したが、六歳のときに兄頼重を超えて嫡子(藩の家督を相続するもの)に決まった。

 水戸藩は他の大名家とは違い、基本的には江戸詰め(定府)であり、藩主が幕府の許可をもらい国許(水戸)に帰ることを就藩といった。

 光圀は34歳で第二代藩主となり63歳のときに藩主を三代綱條(つなえだ・兄高松藩主頼重の次男)に譲り、常陸太田市の西山荘に隠棲した。

 歴代の水戸藩主のなかには一度も就藩しなかった藩主もいたが、光圀の場合73年の生涯の中で通算27年もの長い期間、水戸藩領に在留した。

 特に、光圀の仕事のなかで大日本史の編さんは大きな業績の一つであるが、それと同時に文化財の保護、保存にも大変力を注ぎ、注目されるところであろう。

 市域に関係するもので1662(寛文2)年の磯崎古墳の石棺発見例を嚆矢に、多くの文化財保存に関する事跡が残されている。

 磯崎古墳は、現在の阿字ヶ浦海岸から磯崎海岸を望む台地上にある磯崎古墳群のなかの一つの古墳と考えられ、石棺の中から甲冑・族(鏃(やじり))・旗竿の如きもの・大刀・短矛・陶器などが出土したことが記されている。 

 1663(寛文3)年8月、前浜村(現在の阿字ヶ浦町)と平磯村の境界争いから水戸藩の郡奉行岡見野次衛門が村界調査のため古塚を掘ったところ、石棺のなかから矢の根石(石鏃)・具足などが発見されたので光圀に報告したところ、由緒ある霊廟であろうから、その出土資料を堀出神社として祀るようにと命じられた。

堀出神社(筆者 提供)

 郡奉行の岡見が私費を投じて小祠を建てたが、8年後の1671(寛文11)年8月に水戸藩費をもって建立したのが現在の堀出神社である。いずれにしても全国的に見て出土した考古資料を祭る神社例は少ないのではあるまいか。

 1965(寛文5)年、市毛村住の水戸藩馬廻役古澤平之丞重正(無二亦寺縁起では重将)の屋敷内にあった古塚(経塚)を掘ったところ、真鍮製六角の経筒を発見した。経筒の外側には三行にわたり銘文が刻印されていたが、1 行目に十羅刹女常陸人(住か)光圀の文字が見られたので、光圀に献上したところ、その地に「一乗山無二亦寺」を建立し、経筒を家宝とする旨命じられたが、現在経筒は同寺には残されていない。
 なお、無二亦(むにやくじ)の境内には明治29年に再建された「妙経塚碑」が存在し、経筒発見の由来が記されている。

無二亦寺

妙経塚碑

 また、光圀が行った仕事の一つに藩内の寺社の改革を実施したことがあげられる。水戸藩領は、以前は大部分が佐竹領であり、八幡神社が盛んに信仰されていたが、この八幡神の社神は誉田別命(応神天皇)であり、光圀は、八幡神社の祭神である誉田別命であることに疑問を抱き、水戸藩領にある八幡神社の整理をし、最終的には「吉田神社」や「静神社」の組織に変えられた。現在、ひたちなか市役所の東側に隣接してある吉田神社も元は八幡神社であった。

 そのようななかで光圀は領内の由緒ある社寺、たとえば常陸二宮である静神社(那珂市)や平清盛の長男重盛の墓がある小松寺(城北町)には、貴重な品々を奉納している。

 市内では1677(延宝5)年に、武田村の湫尾(ぬまお)神社に神鏡を奉納している。このことは、湫尾神社は、祖父の徳川家康が水戸藩を成立する以前に、水戸に甲斐武田家を再興(五男 武田信吉 二一歳で死亡)したことも考えると光圀も湫尾神社の由緒正しいことを知っており(甲斐武田氏発祥の地)、神鏡を納めたものであろう。

 現在、この神鏡はひたちなか市の文化財に指定されている。

 このように市内には光圀に関する多くの事柄が見受けられるが、このほか、姥の懐海岸、湊公園(い賓閣、明石須磨から移植した松)、百色山など、光圀の足跡が多数存在している地である。

 最後に、徳川光圀について詳しく調べられたい方には、元茨城高専 教授であり、また鈴木研究室OB会の名誉会員をお願いしている 鈴木暎一先生が著された 人物叢書『徳川光圀』(吉川弘文館 2006年刊)を参考にすることをおすすめします。

湊公園の松(筆者 提供)
























注:本文中赤文字および下記脚注は、事務局で付記したものです。

※1…十羅刹女(じゅうらせつにょ):[仏]鬼子母神と共に法華経の受持者を護持するといわれる十人の羅刹女(広辞苑より)。

※2 …無二亦(むにやく):仏の教えは二つと無いこと