…特別寄稿…

甲斐国に想う(1)

鴨志田篤二


 平成20年11月29日、晩秋の一日を甲斐国に遊んだ。新宿駅発8時丁度の 「あずさ5号」が、笹子トンネルを過ぎたあたりであろうか。

車窓には奥秩父の山並みや南アルプスの冠雪に覆われた山々が目に入ってくると、 甲斐国に来たことが実感として伝わってくるのである。

甲斐駒ヶ岳を望む

 特に延々と連なるブドウ畑や黄金色に輝いた唐松林の遥か奥に真っ白に光る堂々とした南アルプスの山容は、 40年も前の若き日に苦しみながら登攀した熱い思い出を見事にまでも蘇らせてくれる。

 今回の旅の目的は、甲府市の奥座敷と呼称される湯村温泉で午後5時から始まる 鈴木佐年先生を囲む会に出席するためであるが、それと同時に私にとっては数十年来の目的があった。

 その一つは、常陸国武田郷から甲斐国市川郷に配流になった源清光の菩提寺「清光寺」を訪れることと、 もう一つは、戦前に朝鮮半島で植林事業の研究の傍ら、朝鮮の文化財、特に白磁や生活様式に美を見出し、 一生を捧げた浅川巧の生誕の地を訪ねることであった。

 甲斐国といえば、武田信玄公があまりにも有名であり、現在でも甲府駅前に武者姿の銅像が睨みを利かせている、 戦国時代の英雄であり、上杉謙信との川中島の戦いは余りにも有名である。

 この武田信玄公の先祖即ち、「甲斐武田氏の発祥の地」がひたちなか市(旧勝田市)武田の地であることが発表されたのは、 昭和53(1978)年3月、『勝田市史 中世編近世編』である。

 わが国の歴史のなかで、東北地方の平定は古代から続けられていた。甲斐武田氏の祖、源義光は、 清和源氏の嫡流源義家の弟で、新羅三郎義光と呼ばれている。

 義光は、後三年の役【奥羽の清原家衡と一族の真衡らとの間の戦乱。永保3(1083)年から 寛治元(1087)年にかけて起こり、陸奥守源義家が家衡らを金沢柵に攻めて平定】が勃発すると、 兄義家の陣に加わり、乱の平定に功をたて、常陸介、甲斐守などの要職を歴任し、 大治2(1127)年に没した。

源清光の菩提寺「清光寺」

 義光には、昌義、義光らの子がいたが、長男昌義は、佐竹郷(常陸太田市)の馬坂城に拠って、 佐竹氏を名乗り、以後慶長7(1602)年、秋田に国替えとなるまで常陸国の名族として君臨した。

 一方、弟の義光は、武田郷(ひたちなか市武田)に館を構え、武田冠者義清と呼ばれた。

 『長秋記』【源師時の日記。寛治元(1087)年から保延2(1136)年に至る約50年間わたる記録】によれば、 大治5(1130)年12月30日の条に「常陸国司、住人清光濫行の事など申すなり、子細目録に見ゆ」と記されている。

 『尊卑分脈』に因れば、義清は、「配流甲斐国市河庄」と在り、清光の濫行の責により、 父子共々甲斐国に配流【流罪に処すること】されたのであろう。

 清光は、逸見冠者、黒源田と称し、多くの子が有ったが、とくに信義は、武田八幡宮(韮崎市武田)の 神前で元服し、武田太郎信義と名乗り、従前までは、この信義が最初に武田氏を名乗ったとされてきたのである。

 もう30年近く前になるが、甲斐武田氏が「常陸国武田氏発祥の地」説を発表した 志田諄一先生と二人で勝田と山梨を結びつける史跡や名刹を撮影するため2泊3日の旅をしたことがあった。

 義清・清光父子が最初に配流となった地、平塩岡(市川大門町)、清光が要害の地に築城した 史跡谷戸城【北杜市(旧大泉村)】、義清・清光父子の位牌が安置されている正覚寺【須玉町】、 義清が住んでいたとされる義清館跡や義清の墓【共に昭和町】、武田八幡社など、地図と愛用のカメラを 持って巡りまわったがついに清光寺だけは行くことができなかった。

 今回やっと念願の清光寺を見学することが出来た。お寺の説明版には、常陸国武田郷やひたちなか市の 文字を見出した感激は、生涯忘れることが出来ないものであろう。

また、清光の墓に詣でたとき、雄大な借景の中の晩秋の色鮮やかな山々の後に一段と高く聳えて 冠雪に覆われた甲斐駒ヶ岳の雄姿を見たときは、南アルプスに遊んだ若き日の思い出がよぎってしばし動くことが出来なかった。

 私が淺川巧の名を初めて知ったのは、1986(昭和61)年8月、明治大学考古学研究室が実施した 「韓国の史跡と博物館を訪ねて」の研修ツァーに参加したときであった。この旅は、当時明大の 考古学研究室主任教授の大塚初重先生を団長に、現地説明は李進熙先生であった。

 李先生は、明治大学大学院を卒業後、朝鮮大学、和光大学の教壇立たれ、季刊誌『日本の中の朝鮮文化』、 同『三千里』のなかで、古代の日韓関係を独自の歴史観をもって知られた研究者である。

 とくに、東アジアの古代史のなかで重要な位置を占める『広開土王陵碑の研究』(吉川弘文館1972)は、 日本軍の改ざん説を提唱し、大きな論議を呼んだ。

 その李先生から、朝鮮の山と民芸を愛し、朝鮮人を愛し、また朝鮮人から愛された浅川巧の話を聴いたのである。

 浅川巧については、簡単に紹介すると1914(大正3)年5月、 朝鮮で先生をしていた兄伯教(のりたか)を頼り、朝鮮の土を踏んだ。

そして、朝鮮総督府農商工部山林課の林業試験所の技手として配属された。彼は、 「朝鮮のお役に立ちたい」その心を持って、植林事業に情熱を傾け、また朝鮮の芸術を知りえた。 それと同時に、朝鮮語を学び、朝鮮の人々と同化することを自ら理想としていたものと考えられる。

『朝鮮の膳』は、彼が生前まとめられた唯一の書であり、後、遺稿集として『朝鮮陶磁名考』の 2冊の著作を残しているが、それ以上に多くの人々に影響を与えた。

 1931(昭和2)年4月、肺炎をこじらせ40歳の短すぎる生涯を閉じるが、 朝鮮式で埋めてくれと言い残し、そのとおりに埋葬された。

 10時前に長坂駅を降りた私は、山々に囲まれた美しい町を一人歩いていた。 2001年に建設された「浅川伯教・巧兄弟資料館」は、高根生涯学習センターの中に、 図書館と併設して作られていた。日記や寄贈を受けた数々の資料が整然と並び展示されていた資料館を見学し、 改めて彼の業績を確認することが出来た。

 そして、兄弟の生誕の記念碑や浅川家の墓地(巧の墓も分骨されここにもあった)を巡り廻った。 誰一人会うことのない静かな農村地ではあったが本当に来て良かったと心から思った。


(注)淺川巧については、高崎宗司『朝鮮の土となった日本人』草風館(1998・6)に 詳しく書かれている。

…(続く)…