エジプト,アフガン文化遺産の旅
巨大なピラミッドに代表されるエジプトは世界四大文明の一つで,紀元前3000年ごろにナイル川流域に最初の王朝が誕生した。今回,エジプトの文化遺産の旅は私にとって長年の夢であり一度は訪れてみたい地域の一つであった。とりわけ,ここ数年地方のユネスコの仕事をさせていただいている関係で,世界遺産条約(正式には『世界の文化遺産および自然遺産の保護に関する条約』)成立の礎となったアブ・シンブル大神殿は是非ともこの眼で確かめてみたかった遺跡の一つであった。
(ピラミッドを背景に。写真をクリックすると拡大表示されます)
1959(昭和34)年,アスワン・ハイ・ダムの建設計画により,水没の危機にあったアブ・シンブル大神殿を含むヌビアの遺跡群はユネスコによる全世界の呼びかけにより,50ヶ国の参加と,14年の歳月をかけ14の神殿,3の聖堂,1の岩壁墳墓を水没の危機から救った正に文化財保存の「史上最大の作戦」であった。
バーミヤーンの仏教遺跡
ところで2001年は,文化財の保護にとって忘れることのできない年となってしまった。即ち,アフガニスタンのイスラム原理主義者のタリバン派によるバーミヤーンの仏教遺跡の破壊である。海抜2500mのヒンドウクシュ山中の盆地に存在するバーミヤーンは,中央アジアとインド゙の分岐点に位置する要衝の地で,西の大仏(高さ55m),東の大仏(高さ38m)の二大石仏と多数の石窟が残っていた仏教遺跡であった。彼らは,この他首都カブールにある博物館や周辺の仏教寺院などの破壊を行っており,ユネスコを通じて世界中から保護の声を上げたが,二大石仏をはじめとするおおくの遺跡は爆薬等によって破壊されてしまった。
バーミヤーンの大仏は,古くからエジプトに伝統のある巨像(我々が見学したテーベのメムノンの巨像やアブ・シンブル大神殿の巨像)などの西方の影響を受けてバーミヤーンで初めて大石造仏が建立されたものと考える学者もいる。
かつて唐の僧三蔵法師玄奘は,釈迦の教えを学ぶため国禁を犯して長安から聖地インドまでの往復3万キロを17年かけて求法の旅に出かけ,632年にこの地を訪れ,『大唐西域記』に詳細に記している。
このような世界的な遺跡であっても内戦や紛争によって残すことができなかったバーミヤーンの仏教遺跡であるが.世界中にはこの他にも自然災害や大気汚染,武力紛争などによって危機に曝されている文化遺産が多く存在している事を忘れてはいけないと思う。
(いまは破壊され無惨になってしまったバーミヤーン大仏)
日本では
日本では文化財保護法により守られているが,この法律の制定までも幾多の道をたどっている。明治維新の神仏分離令はわが国の文化財の最大危機を招いた。1871(明治4)年の「古器旧物保存方」は,文化財を大切にするよう喚起し,1897(明治30)年の「古社寺保存法」では、宝物類を国宝,建造物を特別保護建造物とし,保護のために社寺の保存金交付を目的としている。さらに,1919(大正8)年の「史蹟名勝天然記念物保存法」は,人為的なもの以外の自然界の遺産にも保存を図ったものである。1929(昭和4)年の「国宝保存法」,1933(昭和8)年の「重要美術品ノ保存ニ関スル法律」は,美術品の輸出問題に対応する規制をしている。
このようななか,1949(昭和24)年1月26日、日本美術史一大博物館である奈良県法隆寺金堂の火災は一瞬にして多くの文化財が灰燼に帰し,翌年の5月30日に「文化財保護法」が制定された。しかしながらこの間に愛媛県松山城(2月22日),北海道福山城(6月5日),千葉県長楽寺本堂(昭和25年2月12日),京都鹿苑寺金閣(7月2日)の4件の国宝の建物が焼失している。
このように自国の文化財保護の足跡を顧みても長い歴史が存在する。
アスワン・ハイ・ダムの建設とアブ・シンブル大神殿の移築
ヌビアの遺跡群がアスワン・ハイ・ダムの建設計画により水没の危機接したのは前述のとおり,1959(昭和34)年である。
アブ・シンブル大神殿は,エジプト第19王朝ラムシス2世が紀元前1250年ごろに建てた壮大な神殿で,神殿前面に建つ高さ21mの巨大な4体の巨像の写真はエジプトの資料をめくれば真っ先に眼に飛び込んでくるほど著名なものである。
アスワン・ハイ・ダム建設によるナイル川の水位は平均で65m上がり,この大神殿も水没は免れなかった。1963年から始まった移築作業は,神殿を16000個のブロックに解体され,方位を変えないで西へ110m,北へ64m,高さ58mの地点に移された。工事は5年の歳月をかけ1985年に完成した。おそらく世界に例を見ない文化財の大工事であったものであろう。神殿前のラメセス2世の巨像や神殿のなかの大列柱室や副室の壁画など,詳しく観察してもブロックに切断されているなど誰も気がつかない.神殿の最奥部にある至聖所には春分と秋分の日の年2回,朝日が差し込み神々の座を照らすという。このような神殿に隠された演出は,長い年月を感じさせない新鮮さが感じられる。
朝2時半の起床は私の旅の中でも初めてであったが,神殿の前に立った時はそのようなことを忘れさせてくれる。眼前に広まる人口湖のナセル湖は何事もなかったように静かであるがこのなかにはまだ多数の遺跡が眠っているのかと思うと不思議である。
カイロで宮地 守 氏(1M)と再会
今回のエジプト周遊の旅のもう一つの楽しみがあった。茨城高専1回生機械工学科卒業の宮地守氏との再会である。宮地氏は日立プラントに入社し、数々の海外の事業に参画しており、小生とはワンゲル部仲間で、文学論では学生時代から口角沫を飛ばす仲間である。日本美術の特別展見学のため、途中寄ったロンドンの大英博物館から2度の電話で宮地氏と連絡が取れ、勤務先のスエズから、小生の滞在先のカイロまで出てきてくれる約束を取り付けた。
当日はカイロ市の考古学博物館で、日本でも良く知られているツタンカーメン王墓出土の遺物(私は2回目の見学)などを見た後、宿舎で宮地氏を待った。ロビーでは、エジプト考古学者の早稲田大学杉山先生(われわれ一行のレクチャーのためわざわざ発掘調査現地から駆けつけてくれた)に今夜の非礼を侘び、部屋にご案内した。再度ロビーに駆けつけると宮地氏が現れ、現地の人の運転する車でカイロ市内へと案内された。
遠く離れた異国の地で青春時代の友に会う、なんと贅沢なことであろうか。酒好きの私であるが、今までに飲んだ酒のなかでも生涯忘れることの出来ない酒の味の一つであることだけは間違いない。