雑談風「技術者の社会的責任」   

                         敬愛大学名誉教授 元茨城高専教授   舘野受男

 1.はじめにー時代をどう捉えるか一

 さまざまな見だし語によって、人々は時代を特徴づけます。

 新たなる21世紀、9.11以後の時代、グローパリゼイションの時代、大不況リストラの時代、バイオの時代、IT革命の時代、神なき時代etc
 このような標語を選ぷことの中に、その人の問題意識が投影されています。

 世相もこうしたことを反映して興味深いものがあります。国語力が低下したといわれる小学生(大学生)が、「拉致」などという難しい漠字を知っている。そしてテロリストの住処として猛烈な爆撃を加えたアフガニスタンの地理上の位置すら知らないアメリカの若者が大勢おるらしいのです。そしてそこにある人類の文化遺産などは全く関心外といった状態です。また当然日本の地理的位置すら知らない。そうした国からグローバリゼーションの大合唱が聞こえてくるのです。するとグローバル化に対して、逆にローカル化が強調されたりする。

 今年の12月のはじめ、入江 昭氏(ハーバード大)がr20世紀末の時点で話題になった本としてポール・ケネディのr大国の興亡』やサミュル・ハンチントンの『文明の衝突』を挙げ、これらの本は強国間、文明間の対立や勢力争いといった吉今東西に見られる現象がこれからも人類の運命を決定していくであろうとする論旨であって、これからの世界をどのようにするのかといった理想像は作り出してくれない」として「未来をどう描くのか」という視点が必要であると主張していました。('02/12!02朝日)

 また最近は時代小説が大変良く読まれているといわれます。こうした現象は、理想像喪失の時代を反映していると思われます。中島 誠(文芸評論家)の「司馬遼太郎論」や「藤沢周平論」そして『遍歴と興亡一21世紀時代小説論一』、最近の『宮部みゆきが読まれる理由(わけ)』等を見るとなるほどと思われる。登場する人物像に救いというか、ある種の理想の姿を投影して読んでいる。市井の人が陋巷(ろうこう)にあって生きる姿の中に深い共感を覚え、そこに理想像を見出しているのでありましよう。入江氏の「未来をどう描くか」に対応する現象です。しかし時代小説の一読者にとどまっていたのでは間題の解決にはなりません。

 さて、そこで本日の間題は次のようになります。
 (1)[生活史的前提]  → (2)自らの視点(implicit or exp1icit)  → (3)時代診断  → (4)[検証作業] →  (5)[実践]

通常この流れ図の(2)から(3)あたりが何気なく語られて、[]カッコの部分(1)、(4)、(5)などは問題にされることが少ない。本日は(4)項の検証に関する問題を中心にお話いたしたいと思います。(1)から(5)を通した分析が所謂イデオロギー批判ということであります。(5)にまで及ばないと本物ではないのですが、本日のところはそれには触れません。

 
 2.社会的責任ということ

 
 技術者の社会的責任ということがテーマでありますが「技術者とはなにか」はここでは自明のこととして前提しておきます。皆さんは、そう尋ねられたら「俺のことだ」と答えればよいでしようから。元高専ドイツ語教師ですから、一寸とだけ教師風に言いますと
 責任(ver・ant-wort-ung);ver(代理)   antworten (応答する)  ← fragen(間う)
つまり誰が、何に対して、何の前で、応答するかということ、これが責任の意昧です。「誰が」についていえば、それはr自由な主体」でなければ責任のとりようがない。専制主義の下にある人間に責任はない。ひたすら殿の御寵愛を待つ御殿女中のような状態においても責任は考えられません。

 「勉強をもって賞せらるるに非ず、懶惰(らんだ)に由って罰せらるるに非ず、諌めて叱らるることもあり、諌めずして叱らるることもあり、言うも善し,言わざるも善し、詐るも悪し、詐らざるも悪し、ただ朝夕の臨機応変にて主人の寵愛を僥倖するのみ。その状あたかも的なきに射るが如く、中たるも巧みなるに非ず、中たらざるも拙なるに非ず、正にこれを人間外の一乾坤と言うも可なり」(『学間のすすめ』第13編)ですから福沢は「独立自存の精神」を強調したわけです。

 少し下世話に次のような戯作は如何でしょうか
 ○創業者にはハムかえません○辞めるのはトウデンのことです○研究に金を惜シマズ ○きようからは雪ズルシ○「国産牛」は貼ツタリでした○アンリまあ、どうジダン?('02/12/23 AERA)ともかく自由な主体が、行われた行為に対して責任をとる、行為がもたらした(なされなかった)結果に対して責任をとる。そして何の前でという「何について」かといえば、あるときは神であり、社会であり、法であり、自己であります。それぞれ宗教的責任、社会的責任、法的責任、自己責任となります(これが倫理学の基本分類です)。この社会という概念がなかなか問題です。会社=社会ではありません(会社人間という言葉もありますので御用心)。わが国では明治初年societyの訳語として「社会」という漢語があてられました。「社会にでる」などという表現もあってなかなか面白い。「社会」は一応既知のこととしましょう。
 
 
 3.対抗策としてのコモンズあるいはpublic sphereの構築

 現代は次から次へと大問題が押し寄せてきまして、まるで燎原の火に周囲を取り囲まれたような状況であります。これに対しては「迎え火を放つ」ということがあります。そのために、多少比楡的になりますが、1.の(3)、(4)について考えてみたいのであります。

 時代診断といいますと、次は治療ということになります。このような事柄について、どのようにして比較的に優れた客観性と有効性を確保するかという問題です。誤った診断と処方によっては世界が不幸になります。
 まず、コモンズはイリイチ(Ivan Illich 1926ウィーン生まれ、ニューヨークのプェルトリコ系居住区の助任司祭などを経て、メキシコで國際文化資料センター(CIDOC)を主催、アメリカ、ヨーロッパの諸大学で講義を行う。学校、交通、医療制度の比較的考察を通して産業社会の病巣を鋭く指摘した)からの借り物です…ホーム(親密空間、ガンジーの暮らした小屋に静かに座って、その中で精神性と癒しを感じる)から自分の身体を使って、いくつものホームをコモンズ(共同空間)に結び合わせ、それによって解放を獲得しようとする…。

 次に、pub1ic sphereは最近私が考えていることです。公私の区別をきちんとつける必要があるとか、最近の若者は公共的関心がないといった公とは一寸と違います。公共圏の形成の問題であります。自由な人格が集まって相互に平等な立場に立って、討議によって「合理的受容可能性」だけをメルクマールとして、合意形成を目指す活動を行う領域です。コモンズと同じようなことを目指しています。これによって時代診断も明確になり、それについての対応も可能になります。つまり「燎原の火」に対する「迎え火」になると思われます。へーゲルに倣って、もう少し論理化しますと、社会現象の領域は 一 家族、市民社会、国家そして國際(inter state…へーゲルはこれを世界史と呼んでいます) 一 に区分されます。家族といっても出発点は自律的個人でありまして、前近代的な家族ではありません。そしてこうした個人が市場の中で生産や販売を行ったり、その他諸々の活動をする領域が市民社会と呼ばれる。軍事や警察や租税などの権力を集約しているのが国家(高級官僚、政治家などによって構成され、市民社会が解決できない問題を解決する)です。われわれは、こうしたへ一ゲル流の市民社会の中に生活しているのです。家族を超え、ある場合には国家にも影響を及ぼすことができるものは何かといえば、それは「公共圏」によって鍛え上げられた言論以外にないと考えられます。ささやかであっても友人が集まり、技術や教育の問題、さらに経済や政治の問題、環境問題、医療問題、國際問題等について討議することが出発点になります。手始めにTV、新聞などのますメテ"イア批判から始められと良いでしよう。また「理科離れ」や「町工場の崩壊」についてアマチュアを含めて討議の圏を作ることです。これによって自由な人格が、平等な立場に立って、討議による合意を形成するという公共圏が成立するはずです。こうすることによってより良い展望が開けてくると思われます。

さて、最後に、若い諸君を前にして妙な話しになりますが、どのようにすれば良い老年を迎えられるかについてであります。つまり良い人生を送れるかという問題です。フォースター(イギリスの小説家,『眺めのいい部屋』、『インドヘの道』などが有名)が老人同志の付き合いを(イ)一生付き合っていた老人同志(ロ)久しぷりに再会した老人同志(ハ)初対面同志という三つに分類し、(イ)が最高であるとして金婚式クラスの友情で結ばれると礼賛しております。ここに集った諸君は、高専に入学し、15歳の青年として互いに出会い、こうした会を継続することによって、つまり自分たちの努力次第で(イ)のような金婚式クラスの友人を得ることができるわけです。その意味でこの会は、大変貴重なものであります。お招き頂きましたことを感謝いたしますと同時に、会の発展を祈念しまして私の話は終りといたします
2003/1/25)